水のうえ

ここは水のうえ、あしたは空のました

【翻訳】還元主義者の育て方:繁栄の時代に向けた子どもの教育のパラダイム再考

※この記事はJournal of Design and Scienceの第5号「Essays in Exploration: Resisting Reduction」にあるHow to (Not) Raise a Reductionist: Reassessing the Paradigms of Child Rearing for an Age of Flourishingの翻訳です。


子どもは一番幼い時期に、直感的で遊び心に満ちた世界とのかかわりを通して、最も難しい運動機能のいくつかを習得することができる。子どもの教育に対する、不可避的に大人の介入が起こる管理主義的方法が、我々が抵抗すべき還元主義を標準化するのだろうか?

我々は人生を旅や巡礼、その最後に何か重大な目的があるものに例えて考えた。そして最終的にその目的に到達するのが重要というわけだ。成功か、ほかのどういう呼び方でもよいのだが、あるいは天国というものが、死の後に訪れるのだ。 しかし、我々はずっと肝要な点を見逃していた。 人生とは音楽のようなものだったのであり、音楽の流れる間、人は歌い、そして踊るべきだったのだ。
- アラン・ワッツ

我々は人生の最初期において、どんな公式な指導もなしに、最も複雑な活動のいくつかを学び習得する。わが子が初めての言葉を発したり初めて歩いたりするさまを目撃するのは親の人生の中でも特別な瞬間であり、それはそのような達成が全く予想されないようなやり方で、かつ大したインプットもなしに起こるからなおさらそうなのである。このような発達上の重要なステップは、子どもの直感的かつ遊び心に満ちた世界とのかかわりから生まれる奇跡的な副産物だが、不幸にも我々の多くは、生まれて数年ののちにはもう、この生来備わった成長のプロセスを信頼しようとはしなくなる。それから間もおかず善意の大人たちがやってきて、指示し、助言し、判断し、賞賛し、ご褒美を与え、訓練しはじめることで、適切な発達のために必要だとみなされた知識、技術、習慣を子どもたちがきちんと獲得するようにさせる。しかし、このことが子どもたちに送る隠れたメッセージとは、人の持つ世界と関わろうとする生来的な本能は、成長のための十分なエンジンではないということである。子どもたちは次のことを信じるようになる。つまり、彼らが自身の発達を導くには、親、教師、専門家、そして一般に社会というような外的な権威が必要なのであり、また、そのような権威の助言、手引き、サービスに頼れば頼るほど、彼ら自身はより完成に近づいていくのだということである。多くの幼稚園、学校、家庭で営まれる子どもの養育に対するこのような管理主義的なやり方が、伊藤穣一1が抵抗するように提唱している還元主義を標準化するものなのだろうか?

義務教育に対する現在の批評家たち2が指摘しているように、人類は学校制度の遥か以前から自分自身を教育してきたのであり、また、教室外での経験はしばしば、大人により押し付けられた教育を通して獲得された知識よりも有用である。つまり、必ずしも指導の必要がある子ども個人ではなく、その子どもが置かれている社会的状況こそが、その社会が依拠している特定のパラダイムを維持するために必要な一連の知識、技術、習慣を、社会の一人一人が共有することを要求しているのかもしれない。教育の歴史の別々の時点において、教育制度は様々な経済的、政治的、宗教的、世俗的な利益に仕えてきた。教育の今日における中心的機能は、消費者資本主義社会の価値、信条、習慣に子どもたちを適応させることなのかもしれない。MITメディアラボ卒業生アロン・ファルベルは次のように主張する。

我々の社会において、大人とは第一に消費(仕事を持つ、金を稼ぐ、物を買う)の生活を意味するのであり、よって我々はこの考え方を、我々が教育と呼んでいる段階的消費の儀式的プロセスを通過させることによって、子どもたちの経験に早期に導入する。3

ファルベルによれば、現行の教育制度は、その制度を首尾よく通過できるように、一種の「通貨」の形で事前にパッケージ化された内容を蓄積するようにデザインされている。カリキュラムを通じて子どもたちが取り組む大半の内容はテストで再生産されるまでの間だけ保持され、その時点で取り組まれた内容は学業単位に変換され、そしてもう忘れられてしまって構わない。より多くの学業単位を生徒が蓄積すればするほど彼らは競争力ある高等教育機関に対しより価値があることになるのであり、そこでは高価な専門的指導の消費がより高い市場価値を学生に与え、そうして彼らはより給与の高い職を得て、さらにより多くの消費に参画し、経済を成長させ続ける。ファルベルは次のように言う。

教育は、より多く消費すればするほどより良くなるのだ、という教訓を伝授する。それが、人々が優秀で従順な消費者であるために取り入れてほしいと我々の社会が望む教訓なのだ。しかしこのことはどの教育課程にもはっきり書かれているものではない。教育の形式と構造がこのメッセージを教え込むのであって、教育の内容が伝達するのではない。4

ファルベルの主張が正しいとすると、実は、優秀な生徒、つまり、指導されるのを好み、設定された課題を成し遂げることから満足を得て、親と教師からの注目と承認のもとうまくやっていく生徒が同時に、教育制度が最大の害悪を与えうる対象であるのかもしれない。従順、成果、達成に向けられたすべての集中は、生徒が決して次のような問いを発することのないようにさせる。「私はだれで、私は何がしたいのだろうか?」という質問を。

多くの点において、我々の今いるような政治的・社会的状況は、機能不全に陥っていた諸機関に対する根本的な疑念を発生させた1960年代のそれを彷彿とさせる。市民権運動、フェミニスト運動、環境運動が勢いを取り戻しつつある中、還元主義的な教育制度から我々の子どもを解放しようとした声5はほとんど忘れられてしまっているように見える。

60年代の反教育運動にはその一つの前例として、1921年にデモクラティックスクールの原型であるサマーヒルスクールを設立したスコットランドの教育家ニールの活動があった。ニールの活動は、次の一つの基本的な考えを中心に置いていた。「子どもを学校に合わせる代わりに、学校を子どもに合わせよう6」という考えである。サマーヒルスクールには一切のカリキュラム、テスト、成績評価、年齢別によるクラス分けがなく、また、子どもと大人が民主的な意思決定を通して学校運営のあらゆる側面に等しい権利を有していた。子どもは学校での時間を、頼んでもいない大人の判断、手引き、介入なしに、自分で有意味だと思えるあらゆる方法で過ごすことができた。同じコミュニティに属するほかのメンバーに害を及ぼさない限り、どんなことでも可能であった。子ども中心のオルタナティブ教育のモデルの他の例である、結局は大人により考えられ強制された特定の教育的意図に基づき精巧な教育環境を用意するモンテッソーリ教育シュタイナー教育などに反して、サマーヒルスクールの民主的な構造は、子どもたちが学習のパラダイム自体を形作ることのできる力を持つ、徹底的に開放的な学習環境へと結実した。サマーヒルスクールの背後にある理念について、ニールは次のように言う。

子どもの役割は、子ども自身の人生を生きることである。その子の心配性の親が送るべきと思った人生を送ることでもないし、何が一番良いかを知っていると思っている教育家の目的に沿った人生を送ることでもない。このような大人側の干渉や指導はすべて、ロボットの軍団を生産することに終わる。7

ニールの教育学上の成果により、子ども、教師、親からなる多様なコミュニティが、社会的な要求よりも個人的かつ共有された健康と満足(wellbeing)を、特にその両者が相対立するときに、優先できるようになった。子どもたちが成長しコミュニティの責任あるメンバーの一員として自分たちの生来の必要、価値観、モチベーションを探求し話し合うにつれて、民主化された教室は彼らが目的に対する強い意識を発達させるのを後押しした。その意識というのは、どんな種類の押し付けられた教育規範よりも、よく生きるために肝要なものと言えるだろう。

いくばくかの程度子どもを無意志な大人へと変えることなしに(中略)子どもに無理やり学ばせることはできない。子どもが現体制―――これは、味気ない机の従順な座り手、店で棒立ちする店員、8時半の郊外の電車を機械的に待つ人を必要とする社会にとってよいものだが―――つまり、端的に言うと、哀れなおびえた人間、死ぬほどの怖れを持つ順応主義者のみじめな両肩の上に成り立つ社会を受け入れるようにさせるのだ。8

公式な学校としてのサマーヒルスクールの設立は、最終的にサマーヒルという事業を非常に政治的な声明へと変え、経済的利得にのみ意味を見出しその逆には見向きもしないように全世代を訓練するように作り上げられた教育の産業モデルに疑問を投げかけることとなった。サマーヒルスクールで過ごした最初の学生たちが卒業し、自らの赴くままに大学、職場、もしくは別のコミュニティへと進路をとっていくことで、ニールは親や教育家たちに、子どもたちは厳格な教育規範に押し込まれることなしにきちんとやっていくことができるのだということを証明した。70年代の初めまでに、サマーヒルの事業を全世界に発信した本9が300万部の売り上げを記録するとともに、全世界のフリースクール運動を、非学校教育(unschooling)として知られる子ども中心の自宅教育的やり方ともども活気づけた。近年フリースクールと自宅教育の実践者により行われている自律的な教育の中心的確信の一つは、純粋な学習というものは根本的に生来的なプロセスなのであって、外部から強制された教育的な意図によって台無しにされがちだということである。もし、子どもが代わりに、学習を支え補助するような環境の下で自身の学習をコントロールする自由を与えられたなら、その環境下で個々の人間として目的を探しだすのに必要な個別の知識、技術、習慣を直感的に結び合わせるだろう。

今日のますます標準化されていくテストありきの学校教育といわゆる過保護の情勢は、これらかつての運動が体現した子ども解放の倫理に対して逆風のように見える。映画プロデューサーかつ非学校教育で育ったひとりでもあるアストラ・テイラーはこう記す。

今日、数百万の読者に届いているサマーヒルスクールのような本の展望、つまり、授業に行くこと、宿題をすること、権威に従うことを拒む子どもに同情的な態度を示す展望は、馬鹿らしく見える。10

一方で、世界最高の教育専門家とビジネスリーダーたちは、現在一般的である、上意下達の指導、年齢別によるクラス分け、標準化されたテストの産業的モデルは若者を21世紀の労働市場に向けて用意するのに失敗していると警鐘を鳴らしている。今日のイノベーション経済は、内発的動機付け、批判的思考、創造的な問題解決を、従順さやテストの成績よりも重視するものだ、と主張は続く。これらの能力はフリースクールや非学校教育で学んだ者たちに起こるうれしい副次的効果として長く知られてきたものではあるが、起業家たちは今、創造的な学習用玩具、自発的課外プログラム、自由な遊びが未来のイノベーターを養成するための新しい教育パラダイムとして再パッケージ化された環境であるミニ学校というようなものを両手いっぱいに携えてこの道を率いようとしている。このような学びの試験場の新興ブランドは、しばしばシリコンバレーの労働環境の現在の時代精神と完璧に調和する。つまり、子どもたちは独創的な発想をし、コラボレーションに積極的であり、そしてこれが最も重要なことであるが、彼らの情熱を見込みある学習計画に落とし込むように奨励される。しかし、ちょうど新世代の職場において「仕事嫌いには居場所がない11」ように、この新しくできたクラスにも、大抵の場合不参加の余地はほとんどない。結局のところ、すべては子どもの利益のためということだ。子どもはだれか他人のためにやっているわけでもあるまいし、控えめに言っても、彼らはだれか他人のためにやっているのではないと思わされているのだ。ニールと彼の運動が、自発的な遊びは基本的権利であり健康と満足の生涯にわたる追及のために欠かせないものであると考えたのに対し、新しい教育パラダイムは、遊びの価値を生産性の最適化という目的に還元するものだ。別の言い方をすれば、起業家的な自発的学習というのは教育の還元的機能を疑問に付すことなく、代わりに、ポスト産業化イノベーション経済の動機付けに同期するような「成功」の狭い定義と調和する企業的な管理手段により既存の教育を更新しようとしているだけなのだ。

教育は人間の基本的なニーズとなった。衣食住に対するニーズと等しいレベルで基本的なのであり、我々は制度化された教育への平等なアクセスを人権として語る。よって、子どもの養育という次元における還元主義への抵抗はことさらに挑戦的なものとなる。制度化された教育への権利は、持続しかつ増長する不平等に対抗しそれを平準化するのに有効な方法として確かにはたらくものではあるが、もっと深いレベルにおいては、経済的妥当性と基本的な生活保証の現在におけるもつれ合いが、幼年時代と子どもの養育を仕事に就くための準備の主要な手段だとみなす、より一層の還元主義者的理解に我々を導いてきたのだと認識しなければならない。このやり方は、どれくらいよく生きているかという基準で成功の度合いを測ることを子どもに許さない。むしろこのやり方は、どれくらい経済をよく保っているかということを基準に成功を測るよう子どもに教え込む。たとえそれが、子どもと子どもの属するコミュニティの健康と満足を犠牲にして達成される場合においてであっても。

子どもは、先入観も限界もない遊びを通してこの種の還元主義を特定し問いただす能力を持って生まれてくるが、我々大人は大抵の場合、現行のパラダイムを保護するために幼年時代のこの本物の才覚を無視するようになった。子どもという集団は、ほとんどどんな社会上のほかの集団に対しても不適切な言説とみなされるようになったことを明示的に述べたてることを許されている唯一の対象である。つまり、過度な自由は彼らにとってよくないもので、彼らは我々の支配下に置かれることで利益を得るものだ、と言うのを許されているのだ。もし彼らがこの権力のダイナミクスを問いただすことをやめないならば、もしあるいは彼らが反抗的になり、不安になり、または抑鬱されるということにまでならないならば、子どもたちは過失は自分のせいなのだと思いこまされる。つまり、制度やシステムに何ら非はないのであり、問題は、そのような制度に適応できない彼ら自身の無能力にあるのだ、と。制度になじめなかった子どもは周縁化されたり、放り出されたり、もしくは数の増え続ける障害、たとえば識字障害、ADHDASDSPD、EFDなどを持つと診断され、彼らの味わう無力や不幸を耐え忍ぶのを助けるために、薬、治療、福祉のケアが与えられる。

もし代わりにパラダイムの層自体に一括的なやり方で取り組んだら、そして再び、ちょうどニールのやったように、学校をそして社会を子どもに合わせてみればどうなるだろうか?もしかすると、また再び諭されたり、間違いを直されたり、丸め込まれたり、手なずけられたり、しつけられたりすることを死ぬほど怖がっている我々自身の内なる子どもが、我々の子どもを「子ども」のままにさせておく能力を損なっているのだろうか?

パラダイムの層を掘り進めていくことは痛みを伴う。我々は、自己欺瞞と、純粋な目的を探すための己自身の格闘から自身の注意をそらすために注意深く積み上げてきたアイデンティティと物語に直面しなければならない。経済的成長に対する狭隘な集中は、現在の犠牲に対する報いのごとく、健康と満足はいつか遠い未来に勝ち取られるものだという偽の期待を生み出す。しかし、健康と満足というものは勝ち取られるものではない。それは、ありとあらゆる追及の目的に生気を与えるべくあるパラダイムなのである。もし我々が子どもたちが健康と満足を優先するのを助けたいと望むなら、来るべき世代に対し還元論者的見解を受け継がせようとする制度と構造に徹底的に介入しなければならない。つまり、子どもの養育の現在の規範における還元論的な成長のものさしを廃止し、もっと個人的かつ包括的な成功の定義に則って生きることのできる権利と保証を子どもたちに与えなければならない。

エーリッヒ・フロムがニールの最大の支持者の一人であったことは驚くに値しないだろう。ニールの著作における序文において、彼はこう言う。

サマーヒルで一度起りうることならば、ひとたび人々の準備が整えば、どこででも起こりうることなのだ。著者の言うとおり、問題児などというものは存在しないのであり、ただ「問題親」や「問題人道性」というのがあるだけである。私はニールの著作がきっと発芽する種子であると信じる。やがて彼の考えは、人自身とその人の伸展があらゆる社会的努力の究極の目標となった新しい社会において、一般に認知されるようになるだろう。12

デモクラティックスクール、フリースクール、非学校教育のコミュニティの卒業生たちがあるいは、より還元主義者的でない社会への新しい行路を我々に示してくれるだろうか?つまり、リーダーシップを少数の勝者による力の行使というよりも共通の責任として思い描くこと、どんな種類の関心、技術、能力にも意味と利益を全体に与えることを許す適応の原則を採用すること、そして最も重要なことだが、健康と満足を共通の目的にまで押し上げ、各個人と各世代にその意味を己のために再定義し醸成するように促すというようなことだ。

このような野望は、いかに深くパラダイムが変化しなければならないかを考慮すると 到達しがたいものであるように思えるかもしれないが、我々はみな個人として、日常の中で子どもたちと関わるときに選ぶ価値観についてよく考えてみることはできる。我々は、子どもを製作途中の可塑的な作品としてではなく全体としてある一人の人間としてみなすこと、純粋な興味から子どもたちの視点を知ること、我々が受けるべきだと考える補助だけでなく子どもたちが求める助けを与えることを、学ぶことができる。これにより我々は、長年の還元主義者的教育から来る我々自身の偏見について省察し、新たな世代の新らしい物の見方に応じるときに生じる不安に対処することができる。そうして、我々は子どもたちの行く末に割って入るのをやめ、彼らを唯一の存在であるあるがままの個人、そして世代として、よく育つようにさせられるかもしれない。「我々の子どもは何を学び、何を学んでいないのだろうか?」という問いを、「子どもたちはよく生きられているだろうか、もしそうでないのなら、その邪魔になっているものは何だろうか?」という問いに置き換えられるのが早ければ早いほど、我々のパラダイムを分かち合われた繁栄へと転換させられる日は近づくだろう。子どもの養育における還元主義に抗う勇気は、いつの日か我々を導く世代の健康と満足に対する投資なのだ。


  1. https://jods.mitpress.mit.edu/pub/resisting-reduction (日本語版:還元に抗う:機械との複雑な未来を設計する)

  2. cf. Gray, Peter: Free to Learn. Basic Books, 2015; and McDonald, Kerry: Unschooled. Chicago Review Press, 2019.

  3. Falbel, Aaron in: Ekwa Ekoko Beatrice and Ricci, Carlo (eds.): Natural Born Learners: Unschooling and Autonomy in Education. CrateSpace Independent Publishing, 2014.

  4. Falbel, Aaron in: Ekwa Ekoko Beatrice and Ricci, Carlo (eds.): Natural Born Learners: Unschooling and Autonomy in Education. CrateSpace Independent Publishing, 2014.

  5. cf. Holt, John: How Children Fail (1964); Dennison, George: The Lives of Children (1969); Kozol, Jonathan: Death At An Early Age (1967); Goodman, Paul: Compulsory Mis-Education (1963); and Illich, Ivan: Deschooling Society (1971)

  6. cf. Neill, Alexander Sutherland: Summerhill – A Radical Approach to Child-Rearing. Hart Publishing Company, 1960.

  7. cf. Neill, Alexander Sutherland: Summerhill – A Radical Approach to Child-Rearing. Hart Publishing Company, 1960.

  8. cf. Neill, Alexander Sutherland: Summerhill – A Radical Approach to Child-Rearing. Hart Publishing Company, 1960.

  9. cf. Neill, Alexander Sutherland: Summerhill – A Radical Approach to Child-Rearing. Hart Publishing Company, 1960.

  10. https://popularresistance.org/the-unschooled-life-astra-taylor-story/

  11. https://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/06/29/the-gospel-according-to-me/

  12. Fromm, Erich in Neill, A.S.: Summerhill – A Radical Approach to Child-Rearing. Hart Publishing Company, 1960.